古典計算で量子優位を検証するのは難しい。Fe4S4 クラスターで高精度ベンチマークを提示
この論文は、量子コンピューターが古典コンピューターを上回る「量子優位」が現実に期待できるかを判断するために、古典的な電子状態計算の最前線を示す仕事です。著者らは、強相関(複数の電子配置が重要になる)系として知られる鉄硫黄(Fe4S4)クラスターを対象に、非常に高精度の基底状態エネルギーを古典計算で得ました。これにより、量子計算の主張を評価するための確かな比較基準を提供しようとしています。
研究で使われた主な手法はDensity Matrix Renormalization Group(DMRG、密度行列縮約群)です。DMRGは波動関数を効率的に表すテンソルネットワークの一種で、計算の精度は「ボンド次元(D)」というパラメータで調整します。著者らはSU(2)対称性を利用したスピン適応DMRGを、DSU(2)というマルチプレット数(256〜12280の範囲)で系統的に増やし、収束判定はスイープ間のエネルギー差が10^−5ハートリー以下、Lanczos対角化の残差を10^−6に設定するなど厳密な基準で行いました。Fe4S4のモデル空間はCAS(54,36)(54電子、36軌道の完全活性空間)で、異なる外挿法から得られた基底状態エネルギーはそれぞれ約−327.2471および−327.2469ハートリーとなり、二つの外挿結果の差は0.2ミリハートリー(0.0002ハートリー)でした。ハートリー(Ha)は原子単位のエネルギーです。
さらに、研究チームは軌道最適化を含むComplete Active Space Self-Consistent Field(CAS-SCF、完全活性空間自己無撞着場)計算を用いて、これまでに例のない大きさの活性空間にも挑戦しました。具体的にはFe5S12H4^{5−}という分子で、CAS(89,102)(89電子、102軌道)までの軌道最適化を実行し、最終的には331電子・451軌道という極めて大きな活性空間に相当する計算も示されています。この系は25個の開殻軌道を持つ六重項(スピン6に対応する状態)として記述されます。これらは古典的手法で扱える領域を大きく拡張する記録的なサイズです。
計算はORCAという量子化学ソフトと結合し、NVIDIAのBlackwellアーキテクチャを持つグラフィックス処理装置(GPU)上で実行されました。著者らは「混合精度」戦略を採用しています。具体的には、標準の64ビット浮動小数点(FP64)をそのまま使うモード、必要に応じて有効精度を動的に調整する“performant”モード、固定の47ビット有効桁数を強制する“eager”モードなどを評価しています。これらは計算速度と数値精度のトレードオフに関わる技術で、FP64精度をエミュレートするためにOzaki方式を用していると報告されています。
この仕事が重要な理由は二つあります。第一に、量子化学の「難しい」問題として注目されているFe4S4のような系について、最先端の古典的アルゴリズムがどこまで到達できるかを示した点です。Fe4S4はIBMとRIKENが維持するQuantum Advantage Trackerにも最近登録された問題で、古典計算の堅固なベンチマークがなければ量子優位の主張は判断しにくくなります。第二に、著者らは最先端のDMRGデータを量子計算の比較基準として扱うべきだと主張しています。一方で、彼ら自身も古典ハードウェア、特にGPU技術の全能力をまだ十分に引き出せていないと指摘しており、古典実装のさらなる最適化余地がある点を明確にしています。
重要な注意点もあります。DMRGは便利な手法ですが、近似の性質上、精度はボンド次元Dと切り捨て誤差(truncation error)に左右されます。論文では環境誤差と切り捨て誤差の両方が精度を決めると説明しており、外挿法による結果の差(ここでは0.2ミリハートリー)が存在することは不確かさを示しています。また、量子ハードウェア側にはノイズと誤差緩和の必要性があり、これらは量子優位の実証を困難にする要因です。著者らは、量子・古典双方の進展を正しく比較するためには、今回のような高品質な古典ベンチマークが不可欠だと結論づけています。