パネルデータで「個人の需要」は推定できるか:市場が大きければ価格の同時性は小さくなる
この論文は、価格が市場の均衡で決まるときでも、消費者一人ひとりの需要(個人需要)をパネルデータで推定できるかを調べています。著者はサラ・ムーンとホイットニー・K・ニューイで、主要な結論は次の通りです。よく使われるパネル推定法(差分や固定効果など)で得られる個人の価格効果の偏りは、市場にいる消費者の数が多くなると小さくなる、ということです。ただしそのためには、時間変化する個人ごとの好みの部分(「突発的な好み」)が供給側の時間変化ショックと無関係であることが必要です。
研究で扱ったモデルは、個人ごとの線形需要モデルと、価格反応が個人でばらつく「ランダム係数」需要モデルです。供給側は平均的な(線形)供給関数で扱います。各消費者の需要は価格、個人に固有の時間に変わらない効果、そして時間で変わる突発的な好みの項で表されます。一方、市場の均衡価格は市場全体の需要と供給が等しくなることで決まります。著者らはこうした構造の下で、差分など標準的なパネル手法で推定した係数の偏りが市場ごとの消費者数Mに対しておおよそM^{-1}の速度で消えることを示しました。つまりMが大きければ個々の消費者が価格に与える影響は小さくなり、価格はその消費者から見るとほぼ外生的(独立)になります。
なぜこれが成り立つかを大まかに説明します。問題の核心は「同時性(simultaneity)」です。価格は市場の平均需要の影響を受けるため、ある消費者の見えない好みと価格が相関しうると、単純な回帰は偏ります。しかし市場の人数が増えると、1人の好みが平均に与える影響は目立たなくなります。さらに、時間による価格の変化と、各個人の時間変化する好みが互いに独立であれば、個人差の固定効果を差し引いた差分推定がほぼ正しい値を返します。論文はまた、個人と時間の両方の固定効果を入れる設定や、個人が異なる市場から抽出される場合についても同様の近似結果を示しています。
この結果が重要な理由は、従来の市場レベルの需要推定では外生変数(道具変数)を必要とする場合が多い点にあります。著者らは、パネルの個人データを使えば、供給ショックと無関係な個人の突発的好みが成立する限り、道具変数なしでも個人の価格弾力性を近似的に推定できることを示しています。これは、近年のスキャナーデータや消費者パネルを使った実務的な分析手法を理論的に支持する助けになります。実務上は、マクロの時間効果(経済全体の変化など)を取り込むためにトレンドや時点のダミー変数を入れることが提案されています。
重要な注意点もあります。最も強い前提は、時間変化する個人の好みの成分が供給側の時間変化ショックと独立であることです。この仮定が破られると結果は成り立ちません。ただし、時間に不変の個人効果(個人固有の傾向)は供給ショックと相関していても許されます。また、マクロの時間効果が需要と供給の両方に共通している場合は独立性が崩れるので、時点ダミーなどでの制御が必要です。さらに、本稿では扱いを単純にするために線形の供給関数を仮定しています。著者らは一般的な供給関数への拡張を検討中としています。最後に、偏りは「完全にゼロ」にはならず、有限の市場規模では小さいが非ゼロのままである点にも留意する必要があります。