モジュラー対称性を持つ標準模型で“宇宙コライダー”信号を探す:インフレーション中のCP位相変化がもたらす効果
この論文は、標準模型をモジュラー不変性(modular invariance)で拡張した場合に生じる新しいインフレーションの信号を調べています。筆者らはモジュラスと呼ばれる複素スカラー場τをインフラトン(宇宙初期の加速膨張を駆動する場)と仮定しました。インフレーション中にτの値が時間的に変化すると、ヤカワ結合(粒子の質量や混合を決める結合)の位相が変わり、これが結果的にヒッグス場の真空期待値(コンデンセート)を作ります。ヒッグスのコンデンセートを通して標準模型のフェルミオン(電子やクォークなど)が一ループの「宇宙コライダー」信号を媒介します。化学ポテンシャル(場の時間変化によって生じるエネルギーのずれ)によってこの信号が増強されます。次世代の実験はプランク質量より小さいスケールのモジュラス崩壊定数fを感知できる可能性があると著者らは主張します。併せて、ディラック型フェルミオンに対する化学ポテンシャルの正確な式も与えられています。
研究の方法は次の通りです。まずモジュラー不変性を保つようにヤカワ結合をτの関数として書き直します。場の定義を変える二通りの基底のうち、ヤカワ結合からτを消す基底(文章中で“Y基底”)を用いると、場の時間変化は左手成分と右手成分に対する効果的な化学ポテンシャルµP≃k′P·dotτ0/fとして現れます。筆者らはこの設定で、ディラックフェルミオンのディジター空間(de Sitter)における量子化、シュウィンガー=ケルデシュフ(Schwinger–Keldysh)グリーン関数、相互作用頂点、そしてループ補正の計算を行い、ビスペクトル(二点ではなく三点以上の相関)に現れる振動的な寄与を導き出しました。
仕組みを平易に言うとこうなります。化学ポテンシャルはヒッグスの有効質量に負の寄与を与え、µHによりヒッグスが大きな真空期待値v≈µH/√(2λH)を取る場合があります(ここでλHはヒッグスの四次結合で、論文は高エネルギーでλH∼0.01程度を想定しています)。ヒッグスの期待値はフェルミオンに質量m=yvを与えます。同時にフェルミオンには左右で異なる化学ポテンシャルµL,µRが入るため、ベクトル型µVと軸型(アキシアル)µAが生じます。特に軸型µAは特定のヘリシティ(スピンの向き)を持つ運動量帯の粒子生成を強めます。その結果、フェルミオンの数密度が増え、これが二つの「ソフト」フェルミオン線を通すループでインフラトン揺らぎに寄与します。こうした寄与は非ガウス性(ビスペクトルに現れる振動的な特徴)として観測可能な「宇宙コライダー」信号を生みます。
この研究が重要な理由は二つあります。一つは初期宇宙の観測を通して、高エネルギー物理やCP(荷電共役と鏡映)対称性の破れの起源に直接手がかりを得られる可能性があることです。もう一つは、筆者らが次世代実験でプランク質量より小さなモジュラス崩壊定数fを感知可能だと示唆している点です。ただし論文はいくつか重要な仮定と不確かさを明示しています。例えばヒッグスの四次結合が負になる可能性は無視していますし(負だと不安定化が起きます)、インフレーション中の温度を非常に低いT≪Hと仮定しています。またヒッグス揺らぎが3H/2より重いと仮定して量子的な蓄積を避けています。さらに著者らは特定の項(論文中の式(7)に対応する効果)が支配的であると仮定して計算を進めています。これらの前提が外れると結論は変わり得ます。
最後に補足すると、著者らはアキシアル化学ポテンシャルに関する過去の計算を拡張・訂正し、ディラックフェルミオンのディジター空間での正確な表式を与えています。標準模型内の右手型ニュートリノのように二次項がある場合は別種の一ループ効果も生じ得るなど、モデル依存の要素も残ります。全体として、この論文はモジュラー対称性とインフレーションの結びつきが観測可能な初期宇宙の信号を作りうることを示す技術的で具体的な分析を提供していますが、その観測可能性は複数の理論的仮定に依存しています。