SIDDHARTA-2が測定したカイオン水素1s準位の高精度シフトと幅:ε1s=−303±17(stat)±2.5(syst) eV、Γ1s=607±62(stat)±6(syst) eV
新しい結果です。イタリアのDAΦNE加速器で行われたSIDDHARTA-2実験は、カイオン(水素原子の電子が負のカイオン〈カオン〉で置き換わった原子)の1s準位に対する強い相互作用によるエネルギーのずれ(シフト)と準位の幅を、これまでで最も精度よく測定しました。得られた値はシフト ε1s = −303.0 ± 17.0(統計) ± 2.5(系統)電子ボルト、幅 Γ1s = 607 ± 62(統計) ± 6(系統)電子ボルトです。測定精度は従来のSIDDHARTA結果に比べて約2倍に改善しました。統合ルミノシティ(集めたデータ量)は237 pb−1です。
カイオン原子は、負のカオンが水素原子の電子の代わりに入ることでできます。強い核力は最も低い原子準位のエネルギーをわずかに変え(シフト)、準位の寿命を短くして幅を広げます。これらの数値は低エネルギーでの反カオン・核子(¯K N)相互作用に直接つながります。実験値からは「K−p散乱長」と呼ばれる量が取り出せ、これはΛ(1405)という共鳴状態(強い相互作用で現れる短命の状態)の記述に重要な制約を与えます。SIDDHARTA-2はこの散乱長を改良したDeser(デザー)公式を使って計算し、a_{K−p} = (−0.715 ± 0.054) + i(0.905 ± 0.091) フェルミ(fm)という結果を報告しています。
実験の仕組みは次の通りです。DAΦNEのϕ崩壊で生まれる遅いカオンを標的の低密度水素ガス(液体水素の1.65%に相当、1.3 bar、24 K)に入れ、カオンが原子に捕獲されて落ちてくるときに出すX線を観測します。SIDDHARTA-2では面積の大きい改良型シリコンドリフト検出器(SDD)を使い、タイミング分解能や雑音を改善しました。機械背景(加速器由来の不要な信号)も前実験より約3倍低くなり、さらにカオントリガーと時間選別で背景を大きく減らしてX線スペクトルを得ています。データは2023年12月〜2024年2月と2024年4〜5月の二つの走行で収集しました。
解析は、観測したX線スペクトルに対してVoigt関数(ガウスとローレンツの組合せ)などで各遷移線を当てはめ、1s準位の共通のシフトと幅を取り出す方法で行われました。参照となる電磁遷移エネルギーはクライン–ゴルドン方程式を用いて真空分極や反動補正を含めて計算した値を固定値として使っています。系統誤差の内訳は、シフトの不確かさが主にエネルギー校正に起因し、幅の不確かさは検出器のエネルギー分解能(Fano因子と電子ノイズ)に起因します。スペクトルには装置材料や固体試料でできる副次的なカイオン原子の線もあり、それらはモデル化して解析に含めています。前回のSIDDHARTAと比べると、今回の統計誤差と系統誤差の合成でおよそ2倍の精度向上が報告されています。
この結果が重要なのは、低エネルギーの¯K N相互作用に対する実験的制約が強まり、Λ(1405)の性質や、反カオンを含む少数・多体系の理論計算に対する入力が精密化されるためです。ただし、論文も指摘するようにΛ(1405)のポール(共鳴の厳密な位置)には理論的な不確かさが残っており、本測定がそれらの問題を完全に解決するわけではありません。残留背景や検出器応答の不確かさなど、測定に固有の限界もあります。とはいえ今回の高精度データは、低エネルギー¯K Nモデルの許容範囲を大きく狭め、今後の理論・実験の進展に対して有力な基準点を提供します。