財産分割の制度変更が既婚夫婦の就業を増やしたと示す研究:裁判による不確実性が働き手を増やす
この論文は、離婚時の財産分割制度の変更が既婚夫婦の働き方と福祉に与えた影響を調べたものです。著者は、1970年代の「権利名義制(Title‑Based Regime, TBR)」から1980年代に広まった「衡平分配制(Equitable Distribution Regime, EDR)」への移行に注目しました。主な実証結果は、EDRの導入後に既婚の男性・女性ともに労働供給が増え、女性の増加は1950年から2019年にかけての女性の労働力参加率の総増加の約30%に相当する、という点です。
権利名義制(TBR)は、婚姻中に誰の名義になっているかで離婚時の資産配分が決まる仕組みです。これにより、夫婦は離婚時の資産配分を事前に「約束」するような形がとれました。一方、衡平分配制(EDR)は当事者間で合意しなければ裁判所が配分を決める仕組みで、裁判所の判断は必ずしも予測できません。つまりEDRは、家計が将来の資産配分を約束できなくし、新たな不確実性を導入したと著者は説明します。
実証手法として著者は、州ごとに異なる導入時期を利用した「段階的差分の差分法(staggered difference‑in‑differences)」を用いています。これは、複数の州が時期をずらして制度を採用した状況で因果効果を推定する手法です(Callaway & Sant’Anna 2021 や Borusyak らの方法に沿う)。パネルデータを使った分析で、EDR導入後に既婚男女の労働供給と貯蓄が増えたことを確認しています。著者はさらに、推定された平均処置効果(ATT)を構造モデルの推定に使っています。
メカニズムは「予防的貯蓄(precautionary savings)」です。裁判で配分が決まる不確実性は、離婚が起きたときの消費の落ち込みを完全に保障しないため、夫婦はリスク回避的に備えようとします。準備の一つが貯蓄を増やすことであり、貯蓄を増やす手段として労働時間を増やす行動が生じる、という説明です。理論面では2期間モデルや相対的な「慎重さ(relative prudence)」の概念を使い、特にCRRA(一定相対危険回避の)効用関数の場合には慎重さの値が効果の符号を決めるという結果を示しています。
興味深いのは、著者の構造推定による福祉分析です。EDRは離婚時に妻がより大きな取り分を得る可能性を高める一方で、結婚中の不確実性増大が余暇や消費の減少を通じて既婚時の幸福を下げ、結果的に夫婦双方の福祉を低下させた可能性があると報告しています。著者は、もし単純に均等分配を法で明示しておけば(コミュニティ財産制のように)同等の離婚時取り分を確保しつつ、結婚中の不確実性による福祉低下は避けられたかもしれない、と指摘しています。
重要な注意点もあります。本論文の結論は、裁判の不確実性や州ごとの制度差、そして構造モデルの仮定(効用関数の形や慎重さの値)に依存します。論文は並行トレンド仮定の重大な違反にも堅牢であると述べますが、推定と福祉評価はモデルの設定や利用データに敏感です。さらに、先行研究では異なる手法や結果を示すものもあり(例:Voena 2015)、手法の違いが結論の差につながる点も覚えておく必要があります。提供された抜粋は論文全体の要約であり、詳細や追加の検証は本文での確認が必要です。